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──結成は、1989年とお聞きしていますが。
宇多丸:ラッパーの2人(宇多丸・Mummy-D)が出会った時からカウントすると、89年結成という事になりますね、DJ JINが入って来たのは94年なんですけど。元々は、大学のソウルミュージック研究会(早稲田大学ソウルミュージック研究会・ギャラクシー)の先輩後輩なんですよ。その中でも特にHIPHOP好きが集まった。当時は、大学の中でも、いや日本全体でも、HIPHOP好きという人は殆どいなかったから、自然と集まって来ちゃったと言う感じですね。
──今から20年以上も前、1980年代後半と言うと、HIPHOPは日本では殆ど市民権を得ていなかった時代。そうした時期に、HIPHOPに傾倒していったというのは、どんなキッカケから?
Mummy-D:僕は、“フラッシュダンス”(1983年公開)とか映画の影響ですね。ブレイクダンスというのを初めて観て、当時、小学生だったんだけど“なんじゃこれ〜!?”って。子供だから形から入るでしょう。音楽に興味がいったのはその後で、こういうのをHIPHOPと言うんだって。そこからのめり込んでいって、中学以降は、もうHIPHOPばっかり聴いてました。
宇多丸:僕は、いとうせいこうさんの影響が大きいですね。いとうせいこうさんと言うと今はテレビの司会者というイメージですけど、80年代半ばくらいに、日本語ラップというのを本格的に始めた先駆者なんですよ。ロックを主流としたそれまでの音楽の更に先に位置する、最も進化した音楽・文化の形態がHIPHOPなんだって、かなりアカデミックに言葉にしてくれていて、僕はそういう理論的な所から入ったんですよね。
DJ JIN:僕は、80年代後半に高校生で、ディスコはユーロビート全盛だったんですけど、地元の横浜では、HIPHOPやR&Bをかけるクラブというのも出初めていて、それまでに経験した事のない全く違う何かを感じたんですよね。パワーと言うか、カルチャーと言うか。クラブが持っている、この独特な雰囲気は何なんだろうって。それで、DJの存在に気づいたんです。一晩の雰囲気を作っているのがDJなんだって。そこから、DJに興味を持つようになったんです。
──1986〜87年頃、その名も“HIPHOP”というクラブがあったでしょう?
宇多丸:ありましたね、渋谷にね。ちょうど、HIPHOPが出て来た頃…1980年代中盤と言うのは、東京の夜遊びの場が、ディスコからクラブへと移行する過渡期だったんですよね。マハラジャ等に代表される高級ディスコには、黒服(タキシード)がいて、ドレスコード(服装チェック)があって、着飾ったゴージャスな人達が集まっていた。その一方で、ものすごく汚い格好で好き勝手にやるというクラブのスタイルが生まれてきていて・・・。
──HIPHOP系のクラブは、確かにみんなヘンなカッコしてましたよね。ジャージとか(笑)。
Mummy-D:そうそう、ジャージ!(笑)
宇多丸:当時、先取り感のある人は、これからはHIPHOPだって言うんで、アメリカの黒人ファッションを真似し始めていたんだけど、若干、解釈を間違っちゃったと言うか。ジャージって言っても、そういうジャージじゃないぞ、とか(笑)。
──芝浦のインクスティックとか、当時、最先端と言われていたスポットにも、ジャージの人がけっこういましたね。なんで、こんなオシャレな店でジャージなのって(笑)。
宇多丸:向こうの黒人達がジャージを着てたのは貧乏だったからだし、みんなアディダスだったのは、知ってるブランドがそれしかなかったからなんだけど、それがカッコイイって事になったんだよね。でも、それって、当時の日本のDCブランド・ブームへのアンチテーゼでもあったと思うし、カウンターだったと思うんですよ。それで、僕も、これならイケる!と思ったわけです(笑)。
──HIPHOPなら、イケると?
宇多丸:高校生だった僕は、お金もなければ童貞だし・・・。
Mummy-D:童貞、関係ないでしょ(笑)。
宇多丸:いやいや、モテたかったわけですよ、やっぱり。でも、世の中的には、日本がバブル絶頂期に向かっている時期で、ディスコ行くには高級ブランドの服が必要だし、女の子とデートするには有名レストランに連れていかなくちゃいけないし、プレゼントもブランド品じゃなくちゃダメ。そんな世の中だと、若いモンは元気なくなるわけですよ。結局、金持ちのオヤジだけが勝つ仕組みかよって。バンドやってる連中はモテたけど、俺は楽器もできないし、オンチだからヴォーカルも無理。そんな時に、ラップだったら勝てるかもと思ったんですよ。HIPHOPという文化は、金もない何もできない俺達でも元気になれる考え方だと思ったんですよね。とにかく、当時のラッパーはみんな不細工だったから、この世界ならイケるぞ、と(笑)。
Mummy-D:確かに当時はひどかったよね、ルックスは。ほんと、世の中に出ちゃいけない人達ばっかりだった(笑)。
宇多丸:あ、アメリカのラッパーの話ですよ(笑)。
──日本語ラップをやってみようと最初に思った時、初めの一歩はどんな事から始めたのですか?見本となる人が殆どいない時代ですよね。
宇多丸:いとうせいこうさんやECDとか既に日本語ラップも始まってはいたんですけど、まずは、見よう見まねです。アメリカのラップを聴いて、このグルーヴを日本語で表現するにはどうしたらいいか実験を繰り返していった、そんな感じですね。HIPHOPのレコードには必ずインストがついていたから、そのトラックに乗せて練習したり。
DJ JIN:とにかく少ない情報を如何に収集するか。あのサンプリングの元ネタは、あのレコードに入っているらしいとか、数少ないHIPHOP好きのコミュニティーで情報交換して。
宇多丸:海外のHIPHOPの雑誌を買い漁って、隅から隅まで読んで・・・。
DJ JIN:そうそう。チャートも全部チェックして・・・。
──輸入雑誌を手に入れる事自体も大変だったでしょう?
宇多丸:『The Source』というHIPHOP専門誌が当時からあって、でも、渋谷のタワーレコードでも10冊程度しか入荷しないんですよ。とにかく売り切れた日にゃ大変だって言うんで、毎日行って“いつ入りますか?”“今日って聞いたんですけど、まだですかぁ?”って、ほんとに必死でしたね(笑)。
──今は、日本語ラップも当たり前だし、HIPHOPも1つの音楽ジャンルとして確立していますが、20年後に、そういう時代がやって来ると思っていた?
宇多丸:全く思ってないですよ。HIPHOPで食べていけるなんて考えられなかったし、自分達がCDを出せるなんて夢にも思わなかった。そんな事を想像できる距離感ではなかったですね。ものすごく可能性がある事はわかってたんですよ。いずれは、日本でもHIPHOPが定着して、日本語ラップが音楽の定番になる、そういう時代は必ず来るという確信はあったんです。だけど、僕らが活動できる期間中には無理だよねって、そんな話をいつもしてたんです。あまりにも理解者が少なすぎるから、次の世代、その次の世代と増やしていったところで、追いつかないぞって。そんな時代でしたね。
Mummy-D:そうね。極々少数の仲間の中で、少しでもカッコイイって言われたい。ただ、それだけのためにやってた感じですね。
宇多丸:特にいつやめるとも決めてなくて。どうやったら続けていけるかなとは、もちろん考えてましたけど、HIPHOPで食っていくなんて、想像もできなかった。そんな人、日本に一人もいないんだから(笑)。だから、大学を卒業したら、何か仕事しながら、細々と続けていくんだろうなっていうイメージでしたよね。
──インディーズでの活動を経て、2001年にメジャー・デビュー。今年2月にリリースされた最新アルバム『マニフェスト』は、自己最高のチャート3位を記録。結成から20余年を経て、こうした大反響をどう受け止めていますか?
DJ JIN:RHYMESTERは元々、HIPHOPの領域にとどまらず幅広い層から支持して貰って来たんですけど、それが更に広がったと思いますね。今年は、夏フェスでも、色んなジャンルのイベントに呼んで貰って、各方面のアーティストさん達とご一緒できたり、そういう所で、改めて“広がり”を実感してます。それでいて、HIPHOP好きの連中にも、ちゃんと芯のある作品を届ける事ができたと思うし。
──楽曲作りにおいては、影響・変化はありますか?
Mummy-D:すっごくありますね。僕らは、根っからのHIPHOP村育ちなので、閉鎖的になりがちなんですよね。例えば、夏フェスなんかでも、以前は“ここに来てる人達は、俺らみたいなのは好きじゃないはず”って初めから構えちゃってたんですよね。だけど、今の時代は、みんなジャンルに囚われずに、自由に好きなものを聴いてるんだなって、ひしひしと感じて。作品を作る時は、開かれた表現をしなきゃダメだなって、すっごく思うようになりました。
──開かれた表現?
Mummy-D:そう。例えば、HIPHOP村だけで通用する表現というのもあって、以前はそれでカッコ良ければイイって思ってたんだけど、今は、それだけじゃいけないなって。『マニフェスト』から、すっごく意識が変わりましたね。
──楽曲作りは、どんな風に?まず、楽曲のテーマは、どんな所から発想されていくのでしょうか?
宇多丸:飲みながら、最近思ってる事をざっくり話す。そこからですね。曲を作ろうぜって言うんじゃなくて、雑談です。今、世の中に対して何を思ってるか、何を言いたいか。そういう話をする中で、今歌うべき事はこれなんじゃないかってテーマが見えてくる。
──今回の新曲「Walk This Way」の場合は、どんなお話から?
宇多丸:これはね、今、ずっと話して来た事とも通じるんだけど、俺ら20年やって来て、今すごくイイ感じだよねっていう話になって。でも、こういう取材の時にね、成功の秘訣は?みたいな事を聞かれても“いや、あの、頑張りました”しかないんですよね。「Walk This Way」の歌詞にも書いたんだけど、ほんと、自伝に書くような面白い事が一個もない(笑)。この20年間、僕らがやって来た事は、○月○日のライヴのために一生懸命考えて練習しました…この繰り返し。すっごく地味で、全然面白くない(笑)。
──そこが、歌のテーマに?
宇多丸:今の状況って、20年前の俺らにしたら“嘘だろ”なんですよね。大成功してるわけですよ。だけど、現実の俺たちからしたら、大成功と言われても、やってる事は、相変わらず、□月□日のライヴに向けて一生懸命考えて頑張りました…なんだよね。要するに、近道はない。ショートカットはないんだよね。少なくとも俺らは、そういうタイプだったんだ。そんな話をずっとしてたんです。傍から見たら輝いているのに、本人は全くそれに気づいていない。すっごく輝いているんだけど、本人は“え、そうっすか。いつもと同じ事やってるだけなんですけど”みたいな事ってあるじゃない。そういう事をね、テーマにしたいなって。成功するのに近道なんてないんだぞっていうのと、自分が正しい道を歩んでいても、本人はそれに気づかない事はあるんだぞって。
Mummy-D:スポットライトに似てるよね。
宇多丸:そうだね。当たってる本人は気づかないもんね。
Mummy-D:スポットライトって、当たってる本人は気づかないんですよ。ステージに立ってる時、横見ると、宇多さんにだけ、ビシーっとスポットライトが当たってるの。なんだよ、俺も照らしてくれよとか思うんだよね(笑)。自分に当たってるスポットライトは、光源の白い点しか見えないんですよ。それに似てる。人のいいところばっかりが見えちゃう。
宇多丸:前向きな歌とか、応援歌というのは世の中にいっぱいあるけど、俺らからすると、それでいいのかって言うアプローチのものが多くて、それと一線を画した、ちゃんと俺らが納得できるもの。ポジティブに人を応援しながら、でもウソじゃないっていうような・・・そういうテーマ。これは俺らにとっては、すっごいチャレンジで、ラップというのは、自分の事を歌う…“俺の話”をする場合が殆どなんだけど、今回は、二人称でいこうと。人に語りかける詞にしようって。でも、同時に、やっぱり自分達の歌でもあるんですよね。