──お父様はご高名なクラリネット奏者の傳田高広氏。クラシック一家にお育ちになって、やはり、音楽の原点はクラシック?
チェロを4歳の時から習い始め、ピアノはそれ以前から弾いていました。幼稚園の頃、七夕の短冊に“ちぇりすとになりたい”って平仮名で書いたのを覚えています(笑)。
──ポップスへの興味が生まれてきたのは?
元々持ち合わせた性分なんだと思うんですけど、クラシックで育てられたのに、やんちゃだったんですね、スピリットが。中学くらいから、周りのお友達の影響もあって色々な音楽を聴き始め、テレビの音楽番組も見るようになりました。ギター・ヴォーカル・スタイルのバンドが好きで、L’Arc〜en〜Ciel の大ファンだったんですよ。その年頃って、自分の好きなアーティストが聴いている音楽まで好きになるでしょう。雑誌を読んで“私のJが、U2を聴いている。私もU2を聴かなくちゃ”…って、U2にハマったり(笑)。高校時代が一番ごちゃ混ぜに音楽を聴いていましたね。オルタナ・ロックがすっごく好きで、ニルバーナ、コートニー・ラブ、ノーダウトとか。ジャーニーとかバリバリのロックも聴けば、その傍ら、R&Bも聴きだして。このジャンルが好きって決められずにいて、高校の文化祭では、前夜祭にはオルタナロック・バンドで出て、後夜祭ではダンスフロアの真ん中でR&Bを歌ってました(笑)。
──1999年にインディーズ・デビューされていますが、そのキッカケは?
高校は、カトリックの女子高でみんなお嬢さんばっかりだったんですけど、オルタナ・ロックをやるバンドを作ったんです。それで、遊び半分でライヴハウスに出た時に、地元(長野市)では、女の子バンドも珍しいし、しかも洋楽をやるというので、みんな見に来てくれて、盛り上がってたんですけど、“アンコール”と言われた時に、レパートリーが少ないから出来る曲がなくて。それで、私が即興で、ア・カペラでシンディー・ローパーを歌ったのかな。そしたら、それがすっごく好評で、次のライヴの時も、また“アンコール”となって、またア・カペラでマライヤ・キャリーを歌って。そしたら、そのア・カペラをライヴハウスの方が録音していてくれて、東京の色々なレコード会社に送ってくれてたんですね。ちょうど高校を卒業して、音大進学のために上京した頃に、デビューのお話をいただいて、大学ではピアノを専攻していたんですけど、すぐに辞めてしまいました。
──潔いですね。ご両親の反対はなかったですか?
父も母も何も言わなかったです。うちの父は、クラシック界の中ではかなりファンキーな方で、口癖が“好きな事やれよ、Your Life!”なんですよ(笑)。小さい頃から、いつも、Your Life!Your Life!と言われて育ってきたので、大学を辞める事もすぐに決断できたのだと思います。音楽の基礎を身につけさせてもらって、そこから先は自由に進めという両親には、ほんとに感謝してますね。
──2000年に“傳田真央”としてメジャー・デビュー。長い空白の年月もありましたが。
「耳もとにいるよ〜Ring the bells〜」でメジャー・デビューしたのは20歳の時だったのですが、当時は、自分で選んだ道だったのに、周囲に甘えてばかりで、自分が歌う意味とか、シンガーとして皆さんにこういう事を届けたいとか、そういう意識がとても希薄だったように思います。歌は大好きだったけれども、歌が全てですとも言い切れなかったし、何か1つ掴み切れなかったんですよね。それで、自分を見つめ直そうという時期があって、少し休んで、好きな音楽だけを作りまくって実験してみたり、一人でインドに行ったみたり、自分にとって歌とは?と問い続けていました。そして、長い長い年月を経て、今年になってようやく“傳田真央、R&B歌います!”と宣言できるようになったんです。
──そのふっきれたモノは、何だったんでしょうね?
20歳の頃は、私ってこんな女の子なんだよとか、今こんな恋してるんだけど、どう思う?とか、自分を表現するのが、自分の歌なんだって思っていたんですよね。それで、行き詰ったりもしたし・・・。長い充電期間の間に、自分にとって歌って何だろうって本当に考えて、どうしてこんなに歌いたいだろうって考えて、ようやく気づいたんです。私は自分ためではなく人のために歌いたいんだって。言葉にしてしまうと何てことない一言なんですけどね。
──“自分のもの”だった歌を、世の中全体の共有物・・・“みんなのもの”にしたい、そんな感覚?
そうそう、みんなのものになりたい!(笑)
今回の「My Style」は、私にとっても、すっごく試練だったんですけど、この曲がキッカケとなって、新しい扉を開く事ができたと思います。これからは、大人女子としてのラヴソングを作っていきたい。以前の私のラヴソングは、“私、こんな風に切なくてね・・・”という、涙を武器にした曲が多かったんです(笑)。甘えん坊な部分とか、か弱い感じを可愛い、女らしいと思っていた。でも、今は、女子として誇りを持つポイントを、よりカッコイイところに持っていきたいなと思う。でも、自分の意志を貫いたり、何かを守り通すには、犠牲にしなくちゃいけないものもあるわけで、そういう“強いけど弱い”みたいな心のディテール・・・大人女子ならではのディテールを描いていきたいなと思います。
──12月9日には、ニュー・アルバム『I AM』もリリースになりますね。
アルバムも7年ぶりで、オリジナルは実はまだ2枚目なんですけど、今年再び“傳田真央”として動き出して、その全てを詰め込んだ正に“渾身の”という作品になったと思います。CDというのは、ミュージシャンにとっては“名刺”でもあると思うんですよね。今度のアルバムは、これが私の名刺ですって思いっきり言えるような作品にしようと思って、だから、アルバムのタイトルは『I AM』。ラヴストーリーだけでなく、日常の中の色んな部分、友情を高めようとか、一人になった時間に考えた事もあれば、楽しく街を歩いてる時に感じた事まで、傳田真央の色んな“I am”が入っている。それが皆さんの“I am”と重なって、共有してもらえればと思います。
──ドラマ“交渉人 THE NEGOTIATOR”を通じて、初めて傳田さんの歌を聴いたという方、あるいは活動再開を知ったという方も少なくないかと思うのですが、2009年の傳田真央は、まだまだベールに包まれていましたね(笑)。
そうですね。2009年は、ライヴも少なかったし、あまり表に出る機会がなかったので。傳田真央って実在してたんだっていう人もいたし(笑)。
──そんな中で、10月下旬から100日限定のブログ“女子力!〜DENDA MAO 100DAYS BLOG〜”がスタートしましたね。
なんか、とっつきにくいとか、怖いとか思われがちなんですけど、ブログで随分印象が変わったみたいです(笑)。
──実際の傳田さんは、本当に気さくな方ですよねぇ(笑)。
そうそう“気さくな人”です(笑)。そこんとこ、よーく書いておいてくだいさね(笑)。
──「My Style」『I AM』と連続リリースを経て、来年はどんな抱負を?
来年は、初のワンマンライヴ(2/5 恵比寿LIQUIDROOM)も決まり、特にライヴに力を入れていきたいと思っています。アルバムを通して、傳田真央の色々な“I am”を知ってもらって、みんなが共有していってくれる傳田真央の世界を、ライヴで、より近く感じてもらえたらうれしいです。
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