│ INTERVIEW │
DISCOGRAPHY │
8月6日にシングル「彼に守ってほしい10のこと」でメジャー・デビューを飾る植田真梨恵は、まだ23歳ながら、インディーズですでに40もの楽曲を発表している注目のシンガー・ソング・ライターだ。中学卒業と同時に故郷の久留米を後にし、単身、大阪で一人暮らしを始め、楽曲作りとライブ活動を開始。最初の頃はライブに聴きに来たお客さんが二人という苦戦を強いられながらも、みるみる頭角を現し、ついに今年の1月にはワンマンライブで東西のクアトロを満員にした。そのガッツ溢れるメジャー・デビューへの軌跡を追いかける二回掲載のうちの一回目のインタビュー!!
──今回は二回に分けてのインタビューになります。一回目の今日は、植田さんの出身地である九州時代から大阪でのインディーズ時代についてお聞きします。まず、幼い頃から歌手を目指していたということですが、当時はどんな曲を聴いていたのですか?
植田:両親が歌うのが凄く好きで、というか単純にカラオケ好きなので(笑)、それにつられて当時流行っていたヒットソングをひたすら聴いていましたね。具体的には90年生まれなので、小学校一年生くらいの時で宇多田ヒカルさんとか、浜崎あゆみさんとか、あと小室さん系の曲も聴いていました。ともかく当時流行っていた曲は、全般に聴いていました。
──ギターを始めたのはいつですか?
植田:中学校三年生の時に友達とバンドを組もうということになって、遊び半分ですけど、エレキギターを弾いたのが始まりです。
──最初はエレキですか。
植田:そうですね。「ロック・バンドをやろう」だったのでエレキです。私は従兄弟に借りたレスポールで練習しました。
──そしてそこから、植田さんは久留米のご出身ですけど、中学卒業と同時に単身大阪にやって来るんですね。福岡でもなく、東京でもなく、大阪だったのは何か理由があったのですか?
植田:そもそも子供の頃から歌手になりたかったので、早めに上京して歌いたかったのです。それで当たり前のように、東京に行くつもりでした。でもたまたま大阪のレコード会社と話が繋がったので、その関係で大阪に行くことになったのです。
──高校一年生から大阪で一人暮らしということですが、ご両親の反対はなかったのですか?
植田:両親は凄く心配したと思います。でも小さい時から「歌手になる」って言っていたので、応援もしてくれていて、私がそもそも歌を歌い始めたのが両親と頻繁に行くカラオケなので、そういうこともあって結局最後は応援してくれました。
──実際にはご両親も渋々だけど、植田さんが言い出したら聞かないタイプとか?
植田:そうですね(笑)。「アナタが頑張れると思うのなら、頑張りなさい」みたいな感じでした。もちろん私も、一刻も早く世に出ていきたいという気持ちが強かった。
──引き篭もりの若者が多いという昨今に、素晴らしい根性です(笑)。そして16歳で大阪に来て、早速初のライブをやります。この時は何を歌ったのですか?
植田:最初のライブではカバー曲を歌いました。サディスティック・ミカ・バンドさんの「タイムマシンにお願い」やaikoさんの「be master of life」を歌いました。
──それから僅か二ヶ月後には、早くもオリジナル曲でライブをやっています。
植田:今までやっていたことと違うことをどんどんやりたくて、本格的に活動する上では植田真梨恵の曲がないといけないだろうと凄く思っていました。本当はレコード会社と契約して大阪に出てきたという意識が強かったので、曲とかもどんどん出来てきて、自動的に軌道に乗っていくもんだと、勝手に考えていたのです(笑)。でも、そんなことあるはずもない(笑)。「じゃあ自分で作らなきゃ」っていうことで、ギターで曲を作って、弾き語りで歌いました。
──因みに作曲はいつもギターですか?
植田:今はピアノも使いますけど、基本的には頭のなかでメロディをしっかりと作って、キメ込んでしまいます。それをギターにのせたり、ピアノにのせたりしています。
──ピアノは昔からやっていた?
植田:小さい頃は全く習い事をしてない子だったので(笑)、ピアノも全くやっていなくて、大阪に来てから、高校時代に習いました。なんとか弾き語りは出来ますけど、下手くそです(笑)。
──当時のライブは、どんな場所でやっていたのですか?
植田:ライブハウス専門で、私はストリートではやったことはありません。
──お客さんの入りはどうでした?
植田:それが怖かったですね。特に大阪に来てから友達がいなかったし、ライブに誘う相手がいなかった。チケットのノルマが20枚とか30枚とかあったのですが、それを買ってもらえる相手が一人もいないので、どうしたもんかと悩みました。マネージャーさんに毎回「売れていません」って言うのが凄く辛かったです。
──因みにライブのお客さんの最小人数は?
植田:確か京都だったと思いますけど、二人ですね。たまたま呼ばれたイベントでトップバッターだったのですが、全然人がいなくって、「これやるんですか」みたいな感じ(笑)。
──そこから年間50本くらいのライブを続けてきて、インディーズで出した4枚のアルバムと変則的な3シングル盤CD1枚を合わせると、CDとして発表した曲は40を数えています。
植田:そんなにありました(笑)?
──デビュー前に一財産築いていますよ(笑)。そして今年の1月には東西のクアトロをワンマンで満員にしたそうでね。これはお客さん二人にもめげずに、地道にライブを積み重ねてきた結果ですね。
植田:そうですね。本当にありがたいことです。
──ではインディーズ時代をCDで振り返っていきます。最初のアルバムは「退屈なコッペリア」ですが、CD盤を外すと、写真の植田さんが寝転んでいて、まさに退屈しています(笑)。
植田:これは大阪に出てきてすぐの頃に作ったもので、初めてフルサイズで書いた曲も入っています。当時は曲の作り方が全く分からないまま、私はこれでいいのかと自問自答しながら曲を書いていたのですが、それらがガッツリと収録されているアルバムです。タイトルのコッペリアというのはバレエで有名なコッペリアではなくて、ジャケ写で私の足元に寝ているヌイグルミの名前です。このクマのヌイグルミがコッペリアなんです。私が小学校一年生の時に凄く仲良しの女の子がいて、その子が夏休みの自由研究でクマのヌイグルミを作ってきて、それがコッペリアという名前でした。私はその子がコッペリアを作っているのを見ていて、手作りでもこんなに素敵なモノが作れるんだというのに驚いて、私もモノを作るのが好きだったので、それから手作りにもっと興味を持つようになったのです。だから創作意欲の象徴みたいなモノとして、コッペリアの名前を使いました。あと大阪に来て、友達もいなかったので退屈していて(笑)、そこから創作が生まれるという意味もあります。
──次の作品は「U.M.E.」というタイトルです。
植田:まず単純に、梅の花が凄く好きなんです。このアルバムの当時は18歳ですが、もうそれは子供が産める年なんですよ(笑)。
──それは唐突な(笑)。
植田:正確には16歳から結婚して子供も産んでいいという事実に、凄くびっくりしたのです。自分自身には実感が湧かないけど、でも周りの友だちを見てみると確かに子供を産んだ子がいたし、それに改めてびっくりしたのと、「私でも子供が産めるのだ」という驚きから「U.M.E.」という名前をつけました。だからジャケットでも牛のミニチュアを使って出産をイメージしています。ただ私が産むのは、子供じゃなくて楽曲ですけどね(笑)。
──そして19歳で作ったのが「葬るリキッドルーム」という摩訶不思議なタイトルのアルバムです。
植田:これはわりとコンセプチュアルなネーミングで、この時には曲が沢山溜まってきていて、レコーディングも録り溜めていたんです。その中から特に自分の心の闇を歌ったものとか、寂しいとか暗い部分を歌ったものを敢えてまとめたアルバムです。リード曲になっている「未完成品(スケッチー)」は、その他の曲たちが集まってきたところに書き下ろした一曲で、19歳だから大人と子供の間で揺れ動くみたいな、ありきたりなことですが、そういうものをテーマした曲です。
──そして少し間があいて、21歳の時に「センチメンタルなリズム」が出ます。
植田:これが初めてのフルアルバムです。ある意味私のベスト盤ともいえるもので、インディーズでやってきたものの集大成を作ろうという思いで作りました。シングルで勝負していきたいと思えるくらいの気持ちで書いた曲を集めてあります。その分、振れ幅も強いし、私の中では一番POPなアルバムです。植田真梨恵入門編にはドンピシャで、これでハマらなかったらダメだ(笑)、と思います。
──さらについこの間、22歳で3枚組シングルCD「心/S/サ」という変則的な作品を出しています。
植田:これはインディーズのラスト作です。最初シングルを作ろうという話になってのですが、私は「今どき、シングルCDは売れないんじゃないの。私なら買わない」って勝手に思っていました(笑)。だったらシングルの名目で3枚入れちゃおうとなった。この「心」「S・O・S」「サファイア」というのはサンリオさんとのコラボで、ゲームに起用されていたりする楽曲です。そういう意味では、どれもシングル・カットで問題ない曲ということで、一緒にまとめてみました。
──あと奇妙なところでインディーズ時代を振り返りますと、植田さんはずっとブログをやっていて、そのタイトルが「パンティー16High」っていうんですけど(笑)、これはどういう意味ですか?
植田:私はインディーズのロック・バンド「Hi-STANDARD」が大好きなんです。横山健さんというギタリストがいらっしゃる3ピースバンドで、そもそも最初に手にしたエレキのレスポールも横山さんが弾いていたからです。それでブログのタイトルに、その「Hi-STANDARD」のHiを入れようと思った。あと自分が16歳だったので、「16」が入っている。最後は問題の「パンティー」なんですけど(笑)、当時家の近くに世界から集めた雑貨を売るお店があって、そこの品揃えがメチャメチャ可愛くて、しかも色々な国から集めてきたパンツをたくさん取り扱っていた。私はそれを集めるのが、めちゃくちゃ趣味だったので、そこから出てきたのがパンツですね(笑)。私自身は「パンティー」という言葉は絶対に使わないけどなぜかパンティーとなって(笑)、それらを語感で並べて「パンティー16High」になったのです。自分としてはちょっと可愛いかなって思うブログタイトルで、深い意味は全然ありません。
──なるほど。でも今はブログタイトルも変更になっていますね。
植田:「せんせいフィックス・ミー・ナウ」です。これも口滑りだけを活かして作ったタイトルで、深い意味はありません(笑)。
──そんなふうにインディーズ時代から色々な活動を仕掛けていますけど、雑誌の連載もしていたんですね。読者モデル風に街撮りした植田さんの写真が、当時のファッション雑誌に取り上げられています。
植田:それはZipperというファッション誌に連載されたものです。私が中学校時代から凄く憧れていたファンション雑誌で、ラッキーにも連載を持たせて頂きました。それで連載するならどんなものがいいかなと考えて、そもそも私はコラージュがすごく好きなので、ページ1枚をコラージュで作りました。
──こういう雑誌の連載からも植田さんを知って、ライブに来てくれているかもしれませんね。
植田:そうですね。女の子の雑誌なので、ここで私を知ってくれて来てくれた人もいるかもしれないですね。
──今までのライブは、主に関西地区が中心ですね。
植田:最初はそうですね。それで途中から、東京でもワンマンで出来るようになった。
──九州への凱旋コンサートは?
植田:まだやっていません。本当は早くやりたいんです。福岡を出てから7〜8年経ちますから、みんな私のこと忘れていると思う(笑)。小中学校の同級生は沢山いるので早くライブやって「あー、この人まだ活動していたんだ」ってならないといけませんね。
──みんな驚くんじゃないですか?
植田:そうですね。今でも応援してくれている子もいるし、もちろん両親や家族も含めて、早く顔を見せたいですね。
──インディーズ時代はラジオはやっていた?
植田:今はやっていないですけど、かつては神戸とか関西エリアのラジオをやらせていただきました。
──でも九州では放送していなかった?
植田:そうなんですよ。ですから九州から出て行って、私は大阪の女になってしまった感じなんですよ(笑)。
──言葉も関西弁になってきて(笑)。
植田:特に九州の人は九州が好きだから、これは寂しいことでもあるんです(笑)。
──ではいよいよメジャー・デビューのお話をうかがいますが、それは次回(8月6日掲載)で。
July 7, 2014