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UTAMAP review
ロベルト・杉浦NHK“金曜バラエティー”出演で話題騒然! ラテン・ミュージックに魅せられ、 中南米の芸能界で20年間を生き、 天獄と地獄を味わった男。 ロベルト・杉浦、40歳にして日本デビュー!
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「ダメウンベソ」
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シングル
発売:2010.06.23
ビクターエンタテインメント
VICL-36590
\1,000(税込)
収 録 曲
01.ダメウンベソ
02.東京恋情け
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ロベルト・杉浦 Official Web Site
NHK“金曜バラエティー”に出演。すべてがオーバーアクションのラテン・ノリで強烈な印象を放ったロベルト・杉浦。
中学生でタンゴに魅せられ、大学時代からプロのタンゴ歌手としてステージに。その後、単身、南米に渡り、片っぱしから芸能事務所を訪ね歩き、その場で歌い、自ら売り込み。スペイン語圏で約1億人が観ていると言われる超人気バラエティー番組に出演したことがキッカケで大ブレイク。南米では誰もが知る大スターとなり、マイアミに豪邸を構えるまでに。が、長年連れ添ったマネージャーが事業に失敗。そこから転落の人生が…。波乱万丈の半生を送ってきた男が、40歳にして日本デビュー。
三つ揃えのスーツに蝶ネクタイがトレードマーク。どんなに暑い真夏でも、このスタイルは崩さない。ラテン音楽をこよなく愛し、ラテン音楽を日本に広く浸透させる事に情熱を注ぐロベルト・杉浦。タンゴとの出会いから、南米でのサクセス・ストーリーとその後、ラテン音楽の魅力とその楽しみ方まで、熱くディープにインタビュー!

中学2年生で、タンゴに陶酔!苦しい状況のまま救いもなく、残酷な終わり方をするタンゴに魅せられた!

──まずは、タンゴとの出会いから教えてください。どんなキッカケが?
父がタンゴ好きで、元々、家にタンゴのレコードがたくさんあったんです。僕は、小学校の頃はいじめられっ子で、中学生になってからは世の中に対して反抗的で、鬱積したものがあったんですけど、中学2年生の時、初めてタンゴを聴いてすっごく解放されたんですよね。
ロベルト・杉浦──1970年生まれのロベルトさんが中学2年生の頃と言えば、1980年代中盤ですね。“ザ・ベストテン”などの音楽番組全盛期ですが、歌謡曲には全く興味がなかった?
なかったですねぇ。
──中学2年生と言うと、一般的には、ロックの洗礼を受ける年頃かとも思いますが?
僕の場合は、ロックには気持ちが符合しなかった。でも、同じような衝動だと思います。音楽の力で破壊していくわけですよ、全てを。
──それほどインパクトがあった?
すっごい衝撃でしたね。まずは、あのリズム。サディズムとマゾヒズムが交錯するような歌い方。殴られているのに殴っているような、そういう快感をタンゴの中に覚えて、自分自身が解放されていったんです。その上、タンゴの歌詞というのは悲惨なんですよ。大抵が、辛く苦しい状況を歌った歌なんです。そして、必ず、苦しい状況のまま救いもなく、残酷な終わり方をするんです。そこに魅せられたんですよね。
──辛いけど頑張ろうとか、そういう展開は一切ナシ?悲惨なストーリーが悲惨なまま終わってしまう?
それが良かったんですよ。辛いけど頑張ろうという応援歌ももちろんアリですけど、人間は音楽に同化するんですよね。悲惨な歌と同化すると、自分の中でそれが燃焼して悲惨なものが残らない。キレイになっている。僕は中学生の頃、毎日自分の部屋でタンゴのレコードに合わせて指揮をとっていました。20曲もやると、もう息も絶え絶えでハァハァしてきて…そうやって消耗する事で自分の中の鬱積したものが消えていくんですよね。演歌も似たところがあると思うんですよ。暗くて悲しい歌をなぜ多くの人が聴き、歌うのか。暗いメロディーと歌詞が、悲しみを浄化してくれるからでしょう。人に力を与えるのは、必ずしも、希望を歌った歌だけじゃないと思うんです。

タンゴ・コレクターを訪ね歩き、教えを乞うた少年時代。19歳の時、歴史あるタンゴ楽団に自ら売り込みに。タンゴ歌手としてステージ・デビュー!

──タンゴに魅せられた杉浦少年は、その後どうしたのですか?日本では、タンゴの情報は少ないでしょう?
タンゴ・コレクターと呼ばれる、貴重なSPレコード(1950年代以前の蓄音機用レコード)の蒐集家が世界中にいるんですけど、僕が中学生の頃(1980年代中盤)は、日本国内にもそういう方が何人もいましてね。僕は名古屋出身なんですけど、少し離れた所に有名なコレクターのお爺ちゃんがいらして、そのお宅を訪ねて、レコードを聴かせて貰ったり、色んな事を教わりました。古い音源は、SPレコードでしか聴けないと思っていたら、南米のコロンビアでは、古い音源を新たにレコード化していて、日本でも輸入盤が買えると教えて貰って、それからは、輸入盤をどんどん買って行きました。
──歌詞は、スペイン語ですよね?
当時、“中南米音楽”という雑誌があって、今は“ラティーナ”という誌名に変わっていますが、そこに、毎月4曲くらいずつ、日本語訳の解説が載るんですね。そういうのを集めて勉強していきましたね。
──タンゴを聴いて愛好家になるのはわかるのですが、そこから、自分でも歌うようになるというのは、どんなキッカケから?
小さい頃から歌う事は好きで、ちびっ子のど自慢で優勝したりしてたんですが、タンゴは、レコードを聴きながら、それに合わせて歌っているうちに、自然と歌えるようになっていたんですよね。本格的に歌うようになったのは、大学生になってからです。
──19才から、タンゴ歌手として活動されていたとか?
京都の大学に進学したんですけど、京都には歴史のあるタンゴ楽団がありまして、そこに“歌わせてほしい”と自ら売り込みに行きました。その楽団でステージに立つようになってから、次第にクチコミで広まって、日本国内のタンゴ愛好家の間ではちょっと知られた存在になってまして、大学時代は、全国各地に歌いに行っていました。

1993年、大学卒業後、アルゼンチン行きを決意。音楽事務所を訪ね歩き“俺の歌を聴いてくれ”と歌いながら売り込み!

──南米に行こうと思ったのは?
大学を卒業してからです。僕のタンゴが、本場でどれくらい通用するのか試したくなって。タンゴ歌手として、南米で認められたかったんです。
──いちばん最初はどちらへ?
アルゼンチンのブエノスアイレスからスタートしました。1993年でしたね。ロベルト・杉浦
──スペイン語は?
自分なりに勉強はしていましたけど、独学でしたから、まぁ最初はひどいもんでした。わからない事ばっかり。
──何の伝手もないアルゼンチンで、タンゴ歌手として認められたいと言っても、まずは、何から始めたんですか?
片っぱしから音楽事務所を訪ねて“俺の歌を聴いてくれ”と。“のど自慢荒らし”ならぬ“事務所荒らし”ですよね(笑)。著名なシンガーやマネージャーの前で歌ったり、ラジオやテレビにも自ら売り込みに行きました。そうやって、契約してくれる事務所を見つけて、仕事を始めていきました。数年の間に、アルゼンチンではタンゴ歌手として認められる存在になったんですけど、だんだん、ボレロやマリアッチなどの中米の音楽に傾倒するようになって、それで、拠点をコロンビアに移したんです。
──アルゼンチンからコロンビアへ。南米から中米へ?
そうですね、1990年代の後半は、活動の中心は中米になっていました。プエルト・リコに移って、ドミニカ共和国やキューバにも行きました。キューバでは、ボレロ国際フェスティバルに何度も出演しましたし、各国のメディアに取り上げられる事も多かったです。その後、更に北上して、2000年にアメリカのマイアミに移動したんです。そこで、人生が変わりました。

視聴者1億人の超人気バラエティー“サバタ・ヒガンテ”に出演。一夜明けたら大スター!・・・が、しかし。

──何か大きな出会いが?
マイアミで出会ったマネージャーが、まだ契約もしていないのに、いきなり“今度の土曜日、テレビの生放送に出演できるか?”って。もちろん僕としてはOKですよね。それで、当日になったら、滞在していたホテルにリムジンの迎えがやって来た。ワケもわからず車に乗って、ワケもわからずスタジオに行って、ハイ本番。それが、“サバタ・ヒガンテ”という超人気番組だったんです。
──ギネスブックにも載っている長寿番組ですよね?
“サバタ・ヒガンテ”というのは“巨大な土曜日”という意味で、土曜日の午後7時から11時までの生放送のバラエティー番組なんです。人気歌手が出演して歌うコーナーもあれば、コントのようなコメディーもあったり、クイズもあったり。
──そこで、ロベルトさんは何を?
歌も歌って、ちょっとコメディーもやって。そしたら、それが大ウケで・・・。
──一夜明けたら、大スター?
ほんとにそんな感じでしたね。週が明けて、月曜日になったら、マネージャーがやって来て、“おめでとう!1年間のレギュラーが決まったよ”って。そこで初めて正式にマネージメント契約をして、“サバタ・ヒガンテ”にレギュラー出演する事になったんです。この番組は、アメリカ全域、中米・南米に加えてヨーロッパでも放送していて、スペイン語圏の約1億人が見ていると言われる超人気番組なんです。それに毎週出るようになったので、その後は、各国のテレビ局から引っ張りだこで、中・南米のスペイン語圏の国は、ほとんど行きました。

2年間は絶好調。が、マネージャーが石油事業に失敗して事務所が倒産。マイアミの豪邸暮らしから一挙に転落!

──飛ぶ鳥を落とす勢いってやつですね?
まさにそうでしたね。各国のテレビに出ると、その国でコンサートもできるわけですよ。だから、テレビとコンサートで年収4,000万円。マイアミの高級住宅地に家を買い、リッチな生活をしていました。2年間は、絶好調でしたね。
──と言うと?長くは続かなかった?
2003年頃から、少しずつメディアへの出演も減ってきて、そんな時にマネージャーが石油事業に失敗して。彼はチリ人の事業家で、ベネズエラで石油事業もやっていたんですね。それがダメになって、事務所も畳んで社員も解雇。
──そこから、どうしようと思ったのですか
メキシコへ飛んだり、L.A.へ飛んだりして、契約してくれるプロダクションを探したのですが、なかなかうまく行かなくて。借金が増えるばっかりで3年が過ぎて…。
──マイアミの豪邸暮らしから一挙に転落?抱えた借金1億円とお聞きしましたが?
なんだかんだで、それくらいの金額になりましたねぇ。2000年代の後半は、本当に悲惨な生活でした。2009年にようやくメキシコで外資のメジャー・レーベルと契約できたんですけど、いざレコーディングという段階で、今度はリーマン・ショック。契約したメジャー・レーベルがメキシコから撤退する事になった、と。それで僕の契約も御破算となってしまったんです。そんな挫折を経て、20年ぶりに日本に帰国したんです。

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March 4, 2011
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