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UTAMAP review
BOND(絆)という言葉が、日本でも定着するといいな。愛する大切な人との“絆”を歌った、 若旦那との奇跡のラヴソング「BOND〜キズナ〜feat.若旦那」リリース
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「BOND〜キズナ〜feat.若旦那」
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シングル
発売:2010.10.06
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収 録 曲
01.BOND〜キズナ〜 feat. 若旦那 試聴
02.GIRLFRIENDS
03.BOND〜キズナ〜 feat. 若旦那(You sing with JAMOSA KARAOKE)
04.BOND〜キズナ〜 feat. 若旦那(You sing with 若旦那 KARAOKE)
05.BOND〜キズナ〜 feat. 若旦那(You sing with JAMOSA&若旦那 KARAOKE)
06.GIRLFRIENDS KARAOKE
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「BOND〜キズナ〜feat.若旦那」
●日本テレビ系“ハッピーMusic”POWER PLAY
●テレビ東京“流派-R”9月度KILLERTUNE。
●全国音楽情報TV"MUSIC B.B."9月度パワープレイ
●九州朝日放送“ドォーモ”9月度エンディング
●テレビ大阪“ナイトクルージング”9月度オープニング
●仙台放送“あらあらかしこ”9月度エンディング
●静岡第一テレビ/広島テレビ“150秒の素敵な物語"不思議な同居人"”タイアップ
●熊本朝日放送“5ch”9月度エンディング
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思っている事を直接的に言わないのが日本文化。婉曲的な表現や比喩、行間から感じ取るのが日本語詞。そんな常識おかまいナシに、ブラック・ミュージックの単純でわかり易い歌詞表現を踏襲。英語交じりの日本語で、日常会話そのままに、実体験を開けっぴろげに書いていくJAMOSAの詞。
新曲「BOND〜キズナ〜feat.若旦那」では、若旦那と掛け合いデュエット。これまでの実体験を基に、大切な人との“絆”を描いている。c/wの「GIRL FRIENDS」も、幼馴染との“絆”がテーマ。
父は日本人、母は台湾人。福岡生まれのアメリカ育ち。アメリカの親戚を家を転々とし、親子、姉弟が、バラバラに暮らす時期が長かったというJAMOSA。その生い立ちから、音楽の原点、デビューを掴むまでの道のり、そして何より“人と人の絆”を大切にする、その姿勢まで、JAMOSAの奥深くに迫るロング・インタビュー!

福岡生まれのアメリカ育ち。父は日本人、母は台湾人。“JAMOSA”は、日出ずる国・日本と美しい島・台湾を掛け合わせた名前。

──まずは“JAMOSA”というアーティスト・ネームの由来から教えてください。
私は、日本人の父と、先住民系台湾人の母の間に生まれたハーフなので、日本と台湾それぞれの良さを合わせた名前にしたかったんです。台湾は、かつて、“Ilha Formosa(イルファ・ファルモーサ)”とも呼ばれていて、ポルトガル語で“美しい島”という意味なんですけど、そこで、Japanの“JA”とFormosaの“MOSA”を組み合わせ、JAMOSAという名前を思いついたんです。台湾は“美しい島”、日本は“日出る国”だから“美しい朝日”という意味も込めて、自分で考えました。10代前半で音楽活動を始めた時から、ずっとこの名前を使っています。
──福岡生まれで、アメリカ育ちとお聞きしていますが、アメリカには随分小さな頃から?
幼稚園の頃からですね。母の家系はみんなアメリカ在住。従兄もみんなアメリカで生まれ育ったタイワニーズ・アメリカンなんですね。それで、親族間でコミュニケーションがとれるようにという母の方針で、幼稚園の頃から、私と妹はアメリカの親戚の家で育ったんです。西にも東にも南部にも親戚がいたので、アメリカ中色んな所で暮らしました。
──では、ずっと英語で育った?
普通にアメリカの学校に行ってましたから、英語しか使っていなかったです。私は一度も日本の学校に行った事がないんです。日本に滞在している時も、アメリカン・スクールに行ってたので。

音楽の原点は、ジャネット・ジャクソン。歌詞を手書きで書き写して、クリア・ファイルに入れて、毎日風呂で練習!

──そんなJAMOSAさんの音楽の原点は?
物心ついた時には、スティービー・ワンダーやマイケル・ジャクソンを聴いていました。アメリカでは、三度の食事と同じくらい音楽は欠かせないものなので、誰でも自然と音楽好きになると思うんですけど、私は、MTVを観て、もう誰もがカッコ良くて、私もアーティストになりたい!って小さい頃から憧れていました。観る側じゃなくて、観られる側になりたいって。アメリカは多民族国家なので、学校には、白人も黒人もアジア人もいて、自分が日本人であるとか台湾人であるとか意識する事はあまりなかったんですけど、それでも、やっぱり、人種差別というのを感じる事はあって、そういう時に音楽に慰められたし、励まされもして、どんどん音楽に導かれていったように思います。
──いちばん憧れていたアーティストは?
ジャネット・ジャクソンが超大好きで、ジャネットの曲を完コピしてました。歌詞を全部、手書きで書き写して、クリアファイルに入れて防水。それを、風呂の中に持ち込んで、韻の踏み方や、バースやサビの作り方とか、毎日研究してました。

クラブ初体験は12歳。それからずっと、平日は学校、金・土・日はクラブ活動(笑)。クラブに通って、交友関係を広げ、デビューへの道を切り開いた。

──小さい頃から目立ちたい、注目されたいという欲求があった?
めちゃくちゃありましたね。何をするにも、みんなの先頭に立っていたし、人前に出る事が大好きでした。クワイヤー(合唱団)に入った時も、最年少のくせに、“ソロやります!”って手を上げたり、文化祭のようなイベントの時は、歌もダンスも、何でも参加してステージに立ったし。とにかく、いつも目立っていたかったですね。アメリカの学校は服装も自由。化粧もマニキュアもピアスもOK。髪の色も形も自由だから、毎日、目いっぱいオシャレして、みんなの注目を集めて、子供の頃からすっかりアーティスト気どりでした(笑)。
──将来の道としては、アーティスト以外は考えられなかったでしょう?
絶対アーティストになる。それ以外は考えられなかったですね。
──アーティストになると決めた所で誰でもなれるものではないんですが、どんな風にその道を切り開いていったのですか?
まずは、夜遊びから始めました(笑)。クラブに行って、DJの人と知り合いになる、そこがスタートかなと思って。でも、ただ行くだけでは意味がないので、自分でデモテープを作って会う人会う人に渡して、売り込んで行きました。デモと言っても、ターンテーブルにカセットデッキを繋いで、R&Bのインストかけて歌っただけなんですけど。そのうち、“今度パーティーがあるから歌ってみなよ”と言ってくれる人が現れて。それからずっと、平日は学校、金・土・日はクラブ活動(笑)。
──それは中学生くらい?
初めてクラブに行ったのが12歳の時。見た目も大人っぽかったし、化粧もうまかったから、入れちゃったんです(笑)。本格的に歌うようになったが13歳から。日本に帰国してた時期も、そんな生活をしてたんですけど親には内緒にしてました。布団の中に洋服を隠しておいて、一旦寝たふりをして、夜中に抜け出してクラブ活動。ある時、それがバレて、すっごく怒られたんですけど、でも、私は、お酒もタバコもやっていないし、何も悪い事はしていない。ただ、歌いたくてクラブに行ってるだけだって。そしたら、親も納得して、そこから全力で応援してくれるようになりました。

15歳で、Zeebra・Sugar Soul・DJ Hasebeの前座を経験。17歳で、ハリウッド映画“リトル★リッキー”の挿入歌に起用される!

──最初のチャンスが訪れたのは?
15歳の時、福岡に帰っていた時期だったんですけど、地元のクラブに、ZeebraさんとSugar SoulさんとDJ Hasebeさんが来る事になって、その前座をやらないかって。もう、それはやるっきゃないでしょ?それがキッカケとなって、まず福岡のアーティストに知られるようになって、少しずつ色んな人からフィーチャリングや前座で呼んで貰えるようになりました。
──17歳の時、JAMOSAさんの曲が、ハリウッド映画“リトル★ニッキー”挿入歌に起用されていますね。そういうチャンスも、人付き合いの中から?
あるプロデューサーと電話で話す機会があって、“歌ってみなよ”と言われたから電話口で歌ったんです。そしたら“L.A.においで”って。それで即効でL.A.に行って、着いた日にスタジオでレコーディング。“すごいイイじゃん”と言って貰えて、そこから、デモをいっぱい作って、L.A.のクラブに出させて貰ったり、L.A.で活動するようになったんです。そんな時に、プロデューサーから映画“リトル★ニッキー”の音楽の話があって、アダム・サンドラーさん(主演・脚本)に、曲を聴いて貰ったら“この曲超イイじゃん”と気に入って貰って、挿入歌として使って貰える事になったんです。

デモテープがキッカケとなり、インディーズ・デビュー!日本語で歌詞を書くようになってから、同性からの圧倒的な支持を得るように。

──その後、日本でのデビューは、どんな経緯で?
L.A.でたくさんデモを作っていたので、それを日本に送ったんです。で、気に入ってくれる事務所があって“東京に来てみなさいよ”と。今度は東京に飛んで行きました(笑)。
──それで、インディーズ・デビュー?
2002年11月に、ミニ・アルバム『REMINISCING』でインディーズ・デビューしました。19歳の時です。デビュー作は、全曲英語詞でした。
──憧れ続けたシンガー・デビュー。どんな気持ちでした?
みんな“歌うまいね”と褒めてはくれるんだけど、それだけじゃ私は満足できなくて。だって、すっごいイイ歌詞書いてるのに、なんで私の想いが伝わらないの!って。その頃の私は、漢字は書けないし、敬語も喋れない。日本語の歌詞なんて書いた事がなかったんです。でも、これは日本語で書くっきゃないと思って。完璧な日本語は無理だから、英語混じりの日本語で、私なりの日本語表現で書けばいいやと思ったんです。それで、次のミニ・アルバム『Standing Strong』は、日本語詞にしました。
──反応は変わりましたか?
全然違いましたね。若いくせに恋愛経験だけは豊富だったから、切ない想いや悲しい経験をそのまま書いたんですけど、それが同性からの共感を呼んで、歌詞も評価して貰えるようになったんです。その後、3作目からは、メジャーで出せるようになりました。

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September 15, 2010
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