木根尚登が、中央線の14駅をテーマにした弾き語りフォーク・アルバム『中央線』をリリース。手書きの歌詞、巻末には“御同輩、ご機嫌いかがですか”と綴った漫筆・・・70年代フォーク・アルバムによく見られた歌詞カードのスタイルを踏襲。CDの帯には“推奨年齢50歳以上”の注意書き。50代を迎えた木根尚登が、同世代へ向けて放つ21世紀のフォーク・アルバムだ。
松本孝弘がエレキギターで参加した1曲を除き、アコースティック・ギター、12弦ギター、ピアノ、ピアニカからブルースハープまで全ての楽器を一人で鳴らし、ヴォーカルも一人きり。基地の街・立川で生まれ、音楽に夢中となり、仲間とバンドを結成。SPEEDWAYからTM NETWORKへと繋がっていく少年期〜青春期の思い出を、中央線のそれぞれの駅に重ねて歌う14曲。高尾から東京まで、14の駅にはいったいどんな思い出が・・・?
──まずは、なぜ今、フォークだったのでしょうか?
僕も50代を迎えましたが、今もこうして音楽を続けていられるのは、やっぱり“好き”だからなんですよね。中学生の時に吉田拓郎さんを初めて聴いて、シンガーソングライターに憧れて音楽を始めたのですが、50歳を過ぎてから、色々振り返る事が多くなって、一番最初に音楽を好きになった時の感動、その原点のようなものを残しておきたいなと思ったんです。
──なぜ、中央線をテーマに?
向谷実(カシオペア)さんとお付き合いがあって、向谷さんって今や鉄道オタクとして有名でしょう。最近は、鉄道関係の仕事しかしてないんじゃないかっていうくらい、駅のチャイムとか作ったりとか。そんな話を聞いて、ふっと思ったんです。僕は、立川で生まれ、中央線と共に育って来たんだから、中央線の駅名を歌にして、自分の青春時代を描いてみたらどうかなって。
── 一人だけの弾き語りというスタイルにしたのは?
一人だけでというのは初めてなんですけど、例えば、立川市民会館という所は、宇都宮君と二人で初めて歌ったステージで、そういう思い出深い場所で一発録りしたいとか、色んなアイデアが浮かんで来て。そういう空気感を大事にして一人で作りたいなと思ったんです。
──曲順に沿って、1曲ずつその駅にまつわる記憶や想いをお聞きしていきたいと思います。まずは「高尾駅のベル」。1曲目を高尾駅にしたのは?
色んな人に“普通、東京から始めるよね”って言われるんですけどね、僕ら多摩地区の人間にとっては、中央線と言うのは、高尾から東京へ向かう電車なんですよ。都内の人は、中央線は東京から始まるという感覚なんでしょうけど、僕らにとっては、中央線は高尾から始まって東京で終わるんですよね(笑)。
──発車ベルをキーワードに、“行く・行かない”がテーマとなっていますが?
僕と宇都宮君は、高校時代、高尾から中央本線に乗って、相模湖の方まで通っていたんですよ。それで、宇都宮君とよく高尾駅で蕎麦を喰ってた(笑)。最初は、そんな話を歌にしようかと思っていたんですけどね。高尾というのは、終点で折り返しの駅だから、終電で寝過して始発を待つ人なんかもけっこう多くてね。そんな事も思ったりしながら歌詞を書いたんだけど。行くか行かないか、どっちに行こうかって迷う事って、たくさんあるでしょう。そんな事を発車ベルに重ねてストーリーにしてみました。
──「八王子メモリー」は郷愁を誘う切ないナンバーですが。
八王子のテーマは、最初から“夕焼け”と決めていたんです。実は、八王子は、童謡「夕焼け小焼け」の発祥の地なんですよ。♪夕焼け小焼けで日が暮れて〜〜〜カラスと一緒に帰りましょう・・・というあの歌は、八王子の山に夕陽が沈む風景を描いたもので、八王子には歌碑も建っているんです。だから、八王子は夕焼けをテーマにしようって最初から決めていました。
──「立川の空」は、やはり基地がテーマ?
基地と言うと沖縄のイメージが強いと思うんですけど、立川も基地の街だったんですよ。立川市の面積の2/3が基地だった。2/3がアメリカだったんです。とにかく広大な敷地で、遮るものがないから、空がすっごく広くてね。そこに米軍機が飛んでいた。ものすごい騒音で、僕らが小学生の頃は、校舎は二重窓でした。
──基地なしには立川は語れない?
そうですね。立川基地の向こうには、福生(横田基地)・・・あの“限りなく透明に近いブルー”が生まれた街があって、福生に行くと、もっともっとアメリカでね。そういう所で生まれ育ったんだなっていう事を、もう一度自分なりに再確認してみようと思ったんです。基地は返還されたけど、本当に平和な時代になっているのかなという思いもあったし。
──フェンスの向こうのアメリカに対する憧れみたいなものもあった?
憧れでしたねぇ。みんなが洋楽に憧れる時代でしたよ。FEN(現在のAFN)も立川から放送していたから、僕らはそれを聴いていたし。年1回だけ基地が解放されるお祭りがあって、SPEEDWAYの時にライヴをやらせて貰った事があったんです。それがFENでオンエアされて。なんたらかんたらSPEEDWAY!って英語で紹介して貰って・・・英語放送だから当たり前なんだけど、そんな事がすっごく自慢だったり、そういう時代でしたね。アメリカとかイギリスにすっごく憧れて、“ごっこ”をしてたと言うか、もう圧倒的に敵わないと思ってましたよね。TM NETWORKで、L.A.やロンドンでレコーディングするようになった時、向こうの人にすごく褒めて貰ったりして、その時、距離は狭まってきたかなって思ったりしましたけどね。とにかく、僕にとって、基地というのは大きな存在でした。
──「国立マギー・メイ」は実在するお店ですね。なぜ、国立だったんでしょう?
どんなキッカケでマギー・メイに行くようになったのかはもう覚えてないんですけど、僕と宇都宮君が立川で、小室君が府中だったから、ちょうど真ん中なんですよね、国立が。当時のマギー・メイはいつもロックがかかっていて。小室君は、昔から場所とか雰囲気にこだわる人だったから、同じ打合せするなら、ファミレスより、マギーメイの方がオシャレ・・・みたいな(笑)。何かと言うと、打合せだ、ミーティングだって言って集まってましたけど、今思うと、何をそんなに打合せする事があったのか、アマチュア・バンドのくせにねぇ。とにかく、カッコ良かったんですね、マギー・メイで打合せしてる自分達が(笑)。
──「武蔵小金井からの手紙」は、これぞフォークという雰囲気ですね。拓郎さんの「加川良からの手紙」の雰囲気を持ちつつ、歌詞には、懐かしい歌のタイトルやフレーズがたくさん出て来ますが。
これはもう、王道のフォークソングですね。僕の中では、拓郎さんも、陽水さんも、かぐや姫さんも、泉谷さんも1つなんですよ。全員が“僕のフォーク”なんです。だから、色んなテイストが散りばめられています。
──実際に武蔵小金井でアルバイトを?
僕と宇都宮君は、武蔵小金井の駅前にあった不二家レストランでアルバイトをしてたんです。だけど、いつも、二人いっぺんに休むもんだから、“君たち、もう来なくていい”って(笑)。暇だから、そのまま小金井公園に行って、訳もなく走りまわったりしてましたねぇ。何してたんでしょうねぇ、ホントに(笑)。音楽をやる、夢を追いかけてると言いながら、好き放題してた時期でしたね。テレビドラマの“俺たちの旅”がすごく流行っていて、働きもしない若者がのらりくらり暮らしてる感じ・・・その空気感に浸っていたと言うか。バイトさぼったりするのがカッコイイみたいなね。すっかり、中村雅俊さんになった気分でいましたねぇ(笑)。
──続く「三鷹ブルース」は、フィルモア(楽器店)が舞台ですね。
その楽器店が主催したライヴ・イベントで、僕と小室君は出会ったんです。別々のバンドで出ていて、僕が小室君に楽器を貸してあげて、そのお礼を彼が言いに来て・・・そんな出会いでしたね。
──曲調は思いっきりブルースですが。
あの当時のエリック・クラプトンのイメージで作ったんです。クラプトンと言うと、今はポップなエンターテイナーですけど、当時は“ブルースの神様”と言われていて、僕の周りもクラプトン崇拝者だらけでね。見たらわかるんですよ。サングラスかけて、髭はやして、ストラド持って。タバコをネックに挟んで、ギターが焼けちゃった・・・って、わざと焼いてるんですけど(笑)。フォルモアにたむろしてた連中はみんなそんな風貌で、お前らみんなこうだったよねって言う、まぁ一種のパロディーでブルース仕立てにしてみたんですけど。
──この曲だけ、松本孝弘さんがエレキギターで参加されていますが。
松本君は元々ブルースが好きで、彼自身のアルバムでもブルースをやってたりもしていて、ちょっとギター弾いて貰いたいなと思ってメールしたら、即答で“いいよ”って。自由に弾いてよって頼んだんですけど、もうバッチリでしたね。
──「吉祥寺へ帰る」は、高田渡さんに捧げます・・・と記されていますが。
高田さんは、フォークの中で、例えば拓郎さんとかのポップな世界とは対極にいる人でしたよね。一緒に仕事をさせて貰った事があるんですけど、その時の印象はもう強烈でしたね。ほんとに凄い人だなって。吉祥寺には、本当に色んな思い出があって・・・例えば、女の子とデートしたりとか、そういう自分自身の思い出もたくさんあったんですけど、でも、吉祥寺は、絶対に高田さんの歌にしたかった。お亡くなりになってから、もう5年くらい経つでしょうか。僕なりのリスペクト・ソングです。
──「阿佐ヶ谷 小春日和」も、亡くなった方への想いを綴られた歌でしょうか?
この曲は、僕の恩師とも言うべき方に捧げた歌です。僕は、Nack5の開局当初から“えんぴつを削って”という番組を持たせて貰って、後に“オールナイトニッポン”もやらせて貰ったんですけど、その時のプロデューサーの方が数年前に亡くなりまして。その方への想いを書いた曲ですね。その方には、本当に色んな事を教えていただいたんですけど、ある時、僕がソロになってからですけど、ライヴに来てくれた時に“これからは汗をかいた方がいいよ”って言われたんですよ。きっと、僕はどこかでまだTMを引きずっていたんでしょうね。そんな時に“汗をかいた方がいい”と言われて。それで、ハッしたんですよ。確かに、何かに乗っかっている自分がいたんですよね。それからですね、それこそ一人でライヴをやろうとか、自力でもう一度挑戦してみようと思えるようになったのは。 |