PUSHIM、RHYMESTER、HOME MADE 家族など、ジャパニーズ・レゲエ、HIP HOP、R&Bシーンを代表するアーティストが在籍するレーベル“NeOSITE”が、この夏、新レーベル“NeOSITE plus”を設立。その第1弾アーティストとして放つ、期待のシンガーソングライター“Sunya”。
9歳からゴスペルを学び、中学時代からライブ活動をスタート。鍛え上げられた歌声と抜群の音楽センスは高校時代に早くも開花し、世界的R&Bグループ“Shalamar”のメンバー、ジェフリー・ダニエルが、ライブを見てその才能に惚れ込み、ボイストレーニングやライブを共にしたという折り紙付きの実力派アーティストだ。
しかし、彼のキャリアは決して順風満帆ではない。17歳のときにイギリスでレコーディングしたアルバムはレーベルの事情でお蔵入り、帰国後に契約したインディーズ・レーベルも20歳のときに契約解除…。
挫折を乗り越え、逆境を跳ね返してきたSunyaに、メジャー・デビューを勝ち取った経緯、そしてメジャーデビュー曲「雨上がり」についてお話しを聞きました。
──まず音楽活動を始めたのはどんなキッカケだったのですか?
実家は大阪の堺市なんですが、9歳のときに、母親が市役所でゴスペルを教えている団体を見つけてきて、一緒に入ったのが始まりです。
母親がもともとディスコ好きな人で、アース・ウインド&ファイアーとか、スティーヴィー・ワンダーなど、ディスコ・シーンのブラック・ミュージックを家でよく聴いていました。バラードよりも「パートタイム・ラヴァー」のようなディスコ系の曲、あとはABBAとか洋楽ばかりでした。そういう音楽に慣れ親しんでいたので、ゴスペルもすんなり入れましたね。
それから10歳になって独学でピアノを始めました。
──小学生でピアノを独学?
音楽の授業で目立ちたいと思って。姉がピアノを習っていたので、家で弾くのを見ていて自分も弾きたいと思ってはいたんです。でも、父親が“音楽は男がするもんじゃない”という考えだったので、習わせてもらえませんでした。それで、かえってハングリー精神が芽生えて、“習わんでも弾いたんねん”という執念で、姉の持っていた楽譜を全部覚えて練習しました。思い立ったら行動が早くて、一直線でそれしか考えられなくなるんです。
ピアノを弾けるようになってから、自然と自分の中に曲が生まれてきましたね。自分で作った曲の弾き語りをテープに録音して、学校の先生に聴かせたりしてました。“いいですね”ってほめられましたけど、今思うと社交辞令ですね(笑)。
──中学時代からライブ活動を始めたそうですが?
クラブイベントのオーガナイザーをしている人と出会う機会があって、イベントで歌わせてもらったのが初めてのライブでした。友達と3人で、オリジナル1曲と自分の好きなゴスペル曲をジャンベというアフリカの太鼓とギターで演奏しました。ライブで最初にカバーした曲は、ロバータ・フラッグの「キリング・ミー・ソフトリー」とか、「ジーザス・ラブズ・ミー」というゴスペルの曲でしたね。
──洋楽、ゴスペル以外の音楽に興味は持たなかったのですか?
J-POPや学校の授業で習う曲には興味がわかなかったですね。でも、中学校の合唱コンクールは、僕が仕切って3年連続優勝しています(笑)。練習のときから“お前、やらんのやったら帰れ!”とか怒ったりして。自分がクラスを仕切ったのは、このときだけでしたけど(笑)。
──ジェフリー・ダニエル氏とはいつ頃出会ったのですか?
高校に入ってからです。僕のライブが終わった後に、ものすごく身長の高い黒人から“大阪にスタジオがあるから来ないか”と誘われて名刺を貰ったんです。胡散臭いなぁっと思って、世界的アーティストなんて信じてなかったんです。
でも後日あらためて電話をして、だまされたと思ってスタジオに行ってみました。そうしたら、ベイビーフェイスと一緒に撮った写真や、ジェフリーが出演した昔のビデオがたくさん並んであって。そのときジェフリーが、アメリカで1のブラック・ミュージック番組と言って“ソウルトレイン”のビデオを見せてくれて、“これが俺だよ”って画面を指差して。それから信用して、一緒にボイストレーニングをするようになりました。
──どんな影響を受けましたか?
ジェフリーはムーン・ウォークを生み出して、マイケル・ジャクソンに教えたと言われている人なんです。僕はライブで、とても激しく動くんですけど、その動きはほとんど全てジェフリーからインスパイアされています。
それに、イギリスでレコーディングしたときも、ジェフリーがプロデュースしてくれましたし。
──イギリスでのレコーディングはいつ頃ですか?
17歳のときです。外資系のブラック・ミュージック・レーベルと契約して、半年間イギリスを拠点にレコーディングとライブをしていました。でも完成したアルバムは、レーベルの事情で結局リリース中止になってしまったんです。正直すごくショックで、音楽をやめようとまで考えました。
──それでも音楽を続けたのはどうしてですか?
やっぱり自分を表現する手段は音楽しかないんです。
昔から目立ちたがり屋ですけど、周りの目を気にするタイプなんです。子供の頃って、あまり目立ちすぎると反感を買ったりするじゃないですか。だから、小中学校時代は自分の個性を出さないようにしていました。そのストレスを発散できたのも音楽活動をしていたからです。歌うことで自分自身を解放できるというか。ライブで歌っているときは“これぞ自分!”って、生きていることを実感できるんです。 |